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「スウェーデンの母ごころ」ソルヴェイ・マルムクヴィスト (1932-2023)

執筆者の写真: Fine Ladies Kendo WorldwideFine Ladies Kendo Worldwide

更新日:2024年12月3日

ソルヴェイさん第1回世界剣道選手権大会にて。 スウェーデン武道連盟年間活動報告(1969−1970)より ハンス・ルンドベリ氏個人所蔵

ソルヴェイさん第1回世界剣道選手権大会にて。

スウェーデン武道連盟年間活動報告(1969−1970)より

ハンス・ルンドベリ氏個人所蔵


1967年、35歳で剣道を始めたソルヴェイ・マルムクヴィストさんは、ヨーロッパで1960年代に剣道を始めた数少ない女性の一人である。その3年後、彼女は東京と大阪で開催された第1回世界剣道選手権大会にスウェーデン代表として出場し、女性選手唯2名のうちの一人として活躍した。今年9月13日、ソルヴェイさんは90歳で他界した。


スウェーデン剣道の上安欽一氏は、ソルヴェイさんを、剣道の稽古中いつもニコニコと笑みを浮かべる女性だったと振り返る。また、同氏がスウェーデンに移住した理由のひとつに、ソルヴェイさんをNHKのニュースで見たことがあると語った。実際1970年8月にスウェーデンに渡り、以来ストックホルムに在住している。


以下は、スウェーデン剣道連盟の元会長であるハンス・ルンドベリ氏が、2021年にソルヴェイ・マルムクヴィストさんを取材した際の記事である。ソルヴェイさんの訃報に接し、本記事の再掲、また日本語への翻訳・掲載を快諾くださったルンドベリ氏に感謝いたします。FLKW編集部一同、ソルヴェイさんのご冥福を心よりお祈りします。


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ソルヴェイ・マルムクヴィスト (1932 – 2023)


ハンス・ルンドベリ著

ソルヴェイさんが剣道を始めたのは1967年のことで、1962年に柔道を始めて翌年1963年に夫・レナートさんと共同で設立したSödra Judoklubben道場[1](南柔道クラブ)で、恐らく板橋憲明氏より指導を受けた。この道場で、当時公認されていた武道すべてを取り入れたいということで、柔術、空手をも始めた。ソルヴェイさんは、剣道はこの道場での稽古の他、Stockholm’s Studenters Budoklubb (ストックホルム学生武道クラブ)やStockholm’s Kendoklubb(ストックホルム剣道クラブ)にも足を運んだ。 


板橋憲明氏 ハンス・ルンドベリ氏個人所蔵

板橋憲明氏

ハンス・ルンドベリ氏個人所蔵


1960年代末、スウェーデンには原則として定期的な剣道大会はなかった。ヨハン・アペルベリヒやアンダース・マーキーのように、イギリスに行って試合をしたことのある者が、ある程度の試合練習を提案することができた。スウェーデンは、1970年春に東京(団体)と大阪(個人)で開催された第1回世界剣道選手権大会にチームを派遣したが、試合経験の少ないソルヴェイさんも出場することを決心した。ソルヴェイさんの他、チームはロベルト・V・サンドル(チームキャプテン)、ヨハン・アペルベリ、リーフ・ヒューマン、ビョルン・ヴァールベルヒ。監督はゲラン・シタンゲルが務めた。東京で渡辺昭夫氏[2]がコーチとして加わった。 


Photo of Solveig Malmkvist with Swedish flag, behind her Robert von Sandor and the rest of the Swedish team.

第1回世界選手権大会開会式でスウェーデン国旗を掲げるソルヴェイさん。

後ろはロベルト・V・サンドル氏とチームメンバーたち


団体戦の前日、東京で試合の組合せが行なわれ、渡辺コーチもこれに出席した。会議から戻ってきた渡辺氏は、椅子の上にふんぞり返って笑っていた。幸運な組み合わせを期待していたスウェーデンだったが、なんと日本、韓国と同じ予選リーグ入りとなった。開会式では、日本の主催者は多かれ少なかれ、ソルヴェイさんにスウェーデンの国旗を持たせるよう要求した。その役をするはずだったロベルト・V・サンドル氏にとっては面白くなかったが、ソルヴェイさんが女子出場者2名[3]のうちの一人であったため、主催者の要求は受け入れられた。試合経験がないこと、日本武道館という会場、初めての来日、そして何よりも、まさにこれが彼女にとって初めての試合[4]であることに、震えた。その上、試合開始の前に太鼓の音が響いて恐怖を倍増させた。


日本チームとの試合では、相手も自分と同じように緊張していたのが分かったそうだ。対戦相手の竹刀は震え、女性を相手に勝たなければならないことに躊躇しているようだった。ソルヴェイさんが金切り声を上げると、観客は揃って彼女を応援した。どういう訳か、彼女は最初の一本を取得、アリーナは拍手喝采で湧いた。しかし、その後戦況は悪化し、二本を取られ、敗北で試合場を退場した。


1969年3月日に行われた剣道昇級審査記録。審査委員長は渡辺昭夫氏。 ソルヴェイさん4級合格の横にコメントで「素晴らしい気合」とある。 ハンス・ルンドベリ氏個人所蔵

1969年3月日に行われた剣道昇級審査記録。審査委員長は渡辺昭夫氏。

ソルヴェイさん4級合格の横にコメントで「素晴らしい気合」とある。

ハンス・ルンドベリ氏個人所蔵


もうひとつ心に残っているのは、日本での行き届いた付き人サービスである。自分で防具を外すことはほとんどできなかったし、防具を自分で運ぶなどもってのほかだった。日本人の付き人がつきっきりでお世話をしてくれた。スウェーデンの勝利はなかったが、ソルヴェイさんは特に気合で大会に色を添えた。翌日の日本の新聞には、『日本人はスウェーデン人に気合とは何かを教わるべきかもしれない』と書かれていた。


まとめると、彼女はこの旅をおとぎ話の中にいるみたいだったとくくった。帰国が予定より1日早まったが、誰もスウェーデンの報道機関に知らせなかったため、チームがアーランダ空港に到着したとき、出迎えはゼロであった。迎えは翌日、一日遅れで来た。


1971年、ソルヴェイさんはスウェーデン武道連盟剣道部[5]の部長に選ばれた。理由は覚えていないが、誰もその役をやりたがらなかったからだと彼女は語る。女性の会長は、特に日本人の目には否定的に映るだろうと言う人もいたが、彼女はそのような反応は覚えがないと言っている。1972年、スウェーデンは初のヨーロッパ剣道選手権大会を開催しようとしていた。しかし、費用的な理由で参加を辞退する国が相次ぎ、それは実現されなかった。結局、西ドイツから1チームが参加し、1972年9月にグッベンスハーレンで親善試合が行われた。ソルヴェイさんにとって、剣道部長の仕事は1年で十分だった。 


Photo of an Unknown player against Solveig in the match between  Sweden and West Germany 1972.

1972年に開かれた西ドイツとの剣道親善試合で戦うソルヴェイさん。対戦相手は不明。アンダース・マーキー氏個人所蔵


ソルヴェイさんは1967年に剣道を始めてから、週に1、2回の稽古を約12年間続けた。彼女は剣道をやめようと積極的に決心したわけではなかった。剣道一級。柔道と剣道以外にも、彼女はほぼ全てと言える日本の武道を嗜んだ。1970年ごろから始めた障害者スポーツは、彼女にとってとても大切な分野であり、今でも現役である。ソルヴェイさんにとって柔道が一番なら、剣道は容易に二番目である。剣道は、格闘競技に別の次元を与えてくれると彼女は考えている。


Photo of Solveig in her own dojo, S. Malmkvist personal collection

ソルヴェイさん自身の道場にて。ソルヴェイさん個人所蔵


ソルヴェイさんは剣道の指導者になったことはない。日本の先生が、日本の道場で子どもたちのために剣道を指導してほしいと頼んだことが一回あるのみ。彼女が最も感銘を受けた日本人指導者は斎藤泰二範士[6]。しかし、スウェーデン在住の小牧和廣氏にも特別な思い入れがある。特に、彼女の道場の創立10周年記念にグッベンスハーレンで開催された居合道演武会の際のこと。この演武会は、さまざまな武道と、オランダから特別に招かれた柔道家の演武が売りの武道の祭典で、多くの観客が集まり、通りには行列ができた。居合の時間がくるまで、観客はすべての演武に歓声を上げた。そして静寂が会場を包み、いわゆる針が落ちる音が聞こえるくらい静まり返った。小牧氏は長い間正座をしていた。最初の太刀が抜かれるまでに永遠を要したように感じたと、ソルヴェイさんは語った。


最高の剣道の思い出:1970年の世界剣道選手権大会。


最高の男性剣士: ヨハン・アペルベリとアンダース・マーキー。


最高の女性剣士: マドレーヌ・シェリン


剣道具は本に混じってまだ家のどこかにあるとか。


Photo of Solveig Malmkvist 2021  Hans Lundberg personal collection

ソルヴェイ・マルムクヴィストさん(2021年)

ハンス・ルンドベリ氏個人所蔵


[1] ストックホルムから10kmほど南にあるグッブエンゲン学校の体育館にあった。板橋憲明氏の帰国後、1970年にスウェーデンに渡った小牧和廣氏が剣道の指導に当たったが、同氏が自身の道場を設立した後1978−1980年の間は上安欽一氏が教えた。


[2] 渡辺昭夫氏は「ヨーロッパに在住していた若者たち5人で1966年に結成された非公式の剣道アドバイソリー・グループの一員であった。渡辺はコペンハーゲン在住であった。」(P. バデン、Oshu Kendo Renmei – A History of British and European Kendo (1885-1974)、2017年、p45)


[3] カナダチームの選手として中村加寿子選手が出場していた。またカナダから三池節子選手が親善試合に出場した。親善試合を公式大会と数えなければ2名、数えれば3名となる。


[4] 初めて試合に出るまでは、試合の規定について漠然としか理解していなかったという。


[5] スウェーデン剣道は、以前はスウェーデン柔道連盟の傘下にあったが、1970年ごろスウェーデン武道連盟と改称された。


[6] 斎藤泰二範士八段は全剣連の派遣で1972年9月から1973年3月までスウェーデンに滞在し、その間剣道の指導をした。


*本稿の原本(スウェーデン語と英語)は著者ハンス・ルンドベリ氏のサイト Svensk Kendohistoria のこちらのリンクより閲覧できます。


** 日本語版は著者の承諾を得てFLKW編集部が原本英語版に多少編集を入れた英語版を翻訳したものです。

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