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千葉さなについて

執筆者の写真: Fine Ladies Kendo WorldwideFine Ladies Kendo Worldwide

更新日:1月12日

坂本龍馬(ウィキペディア)

足立史談」より


千葉さなについては著書「龍馬がゆく」司馬遼太郎著、また「龍馬のもう一人の妻」阿井景子著で知られているが、史実的にどこまで正確なのか?以下千葉さなが晩年を送った足立区の区立郷土博物館が出している「足立史談」の記事を紹介したいと思います。以下、「足立史談」506号2010年4月15日発行の記事と、同誌508号6月15日発行の記事を転載します。


千葉さなについて


坂本龍馬の許嫁として、昨今では大河ドラマ「龍馬伝」で有名になった千葉さなの晩年は千住だった。これは足立史談204号、及び399号でも触れられているが、千葉さなの千葉家とはどういう家だったのか?兄弟は?等々、意外と正確に紹介されている文献は少ない。今回は簡略的に千葉さなについて述べてみたい。


千葉定吉家


千葉さなは除籍謄本から「千葉定吉二女」と記されている。


千葉定吉は鳥取藩に提出された「身上調書」によると、当時無宿浪人だった千葉忠左衛門の三男で、寛政九年(1797)に生まれている。長兄が岡部藩士へ養子入りしたことで人別を得て、次兄の千葉周作ともども江戸入りをしている。千葉周作は日本橋を経て神田お玉ヶ池(現千代田区東松下町)に剣術道場「玄武館」を構え、定吉は当時日本橋新材木町に居を構え、兄周作が創始した北辰一刀流剣術の高弟として過ごしていた。


天保以降に定吉は居を鍛治橋御門外狩野探渕屋敷(現中央区八重洲二)に移し、道場を設け、この地で兄周作より独立して、剣術、及び長刀を教えていたようだ。嘉永六年(1853)に坂本龍馬が初めてこの千葉道場へ入門した際はこちらの道場で稽古をしている。この年の4月に千葉定吉は鳥取藩に召し抱えられている。


この年、安政二年(1855)の震災により発生した火災で狩野屋敷が類焼したことから居を桶町に移し、明治4年(1871)まで同地に約百坪ほどの敷地に道場を設けていた。

この時の家族構成は千葉定吉を筆頭に母タキ、長男重太郎、長女梅尾、二女乙女(さな)、三女りき、四女きく、五女しんの八人構成だった。


当時の評判


話をさなに戻すと、さなの長刀は、姉梅尾から習ったものだ。その素質は父譲りだったようで、早くもその技量は各方面で有名になったようだ。そのため宇和島藩への奉公や、高松藩邸への出張稽古を行い、対戦相手に対し、連戦連勝していたという。


坂本龍馬のエピソードはあくまでもさなの伝承であり、確証めいたものは存在しないが、唯一龍馬が姉、乙女宛に届けた手紙にさなのことが述べられている。


もし、さなが坂本龍馬と会った最期がいつかとすれば文久二年(1862)となるであろう。ただし龍馬は脱藩して国事に奔走している状況なので、逢瀬のようなことはなかったといえよう。


そして慶応4年(1868)に入り、龍馬の訃報が告げられるとさなは自害を試みたという。しかし父に止められ、諦めている。


この後、明治4年(1871)に千葉重太郎が鳥取県へ出仕することになり、このときに桶町の自宅を千葉周作の庶子、千葉東一郎へ譲り、さなも貯えがあったことから横浜に移り住んで長屋を購入して家賃生活を送っていたという。


灸治と晩年


明治9年(1976)ごろにトラブルがあり、長屋を手放して、かつて千葉家に奉公していた川崎の徳兵衛宅に厄介になっていた。その際、父から伝授されていた徳川斉昭直伝の灸治を始めたところ、評判を呼んだという。


明治18年(1885)、兄重太郎が死去すると、東京へ戻り、翌年に千住中組70番地の屋敷を借りてここに灸治院を開業した。


明治21年(1887)、足立郡役所を建築する際、灸治院の敷地も対象となり、ここで一念発起し、千住中組993番地(現千住仲町一番地辺り)に治療所を新築した。


子の灸治院は評判を聞いた各人が、是非にと、さなの灸治を受けに来ており、おかげでかなりの繁昌をしたという。


ただ好調な経済事情とはうらはらに、さなの家庭環境はとても良いとは言えなかった。独身だったため、家督者争いが絶えず、ようやく養子に迎えた勇太朗も明治28年(1895)に26歳の若さで病死してしまった。また翌年には強盗未遂事件なども発生し、とても穏やかな晩年とはいえないものだったようだ。


その明治29年(1896)10月15日、千葉さなは59歳でこの世を去った。死去の後は千葉重太郎の三男、正を死後養子に迎えたが、この正も明治35年(1902)に病没したため、官職を退いた千葉丈太郎の養子、千葉束がさなの灸治院を継ぎ、区画整理のために仲町29番地(現仲町三)に移った戦後も千葉家は代々灸治院を受け継ぎ、昭和50年代まで存在していたという。


千葉灸治院 昭和45年(足立史談204号)

千葉灸治院 昭和45年(足立史談204号)


  1. 千葉さなの漢字だが、戸籍はかな文字で記され、位牌には「佐奈」とされている。(千葉重太郎の子孫である弘氏の教示による)

  2. 2月13日付に朝日新聞紙上に掲載された「千葉さな」と称す錦絵だが、あれはさなではなく、千葉周作の孫、千葉之胤の妹、貞(てい)であり、発見者の宮川禎一氏にもご了解いただいていることを附記する。

  3. 明 治 36 年 ( 1903) に 毎 日 新 聞 ( 現 在 の 「 毎 日 新 聞 」 と は 別 の 新 聞 社 ) に 連 載 さ れ た 「 千 葉 の 名 灸 」 は、 さ な 没 後 7 年 目 に 、 当 時 存 命 だ っ た 千 葉 束(つかね、 重 太 郎 の 養 子 ) を 取 材 し た 連 載 記 事 の た め 、 鳥 取 県 立 博 物 館 や 東 京 都 公 文 書 館 に 所 蔵 史 料 や 公 文 書 と 照 合 し て も 明 治 期 に お い て は 信 憑 性 が 高 い 記 事 と 考 え ら れ る 。


千葉撃剣会ー朝日新聞記事

千葉撃剣会ー朝日新聞記事


足立史談506号2010年4月15日発行あさくらゆう著

「千葉さなについて」より


千葉さなの技量や婚姻事象


さなの剣術の技量については前回述べた通り史実であり、「千葉の名灸」で追記すれば「柄砕き」と「白刃取り」を得意としていたようだ。これらについては既に報じられている通り宇和島藩や越前藩へ長刀師範としてしていたようだ。


そして通説では「生涯独身」を通したとして定着しているが、明治26年(1893)に『女学雑誌』で発表された記事では「未亡人」と紹介されてはいるが、生涯独身の記述は存在しない。

では、いつからそうなったのか、これらは司馬遼太郎の「幕末のこと」(1964)で初出され、阿井景子の「龍馬のもう一人の妻」(1985)で定着した。


「千葉の名灸」の記述


しかし「千葉の名灸」によると違う様相となる。さなは明治4年(1971)に道場があった桶町から離れ(後述)、明治6年(1873)には姉の住む横浜へ移り住み、今の中区長者町8丁目にあった清正公堂(現在は同9丁目に移転)の前に長屋を建築し、家賃収入を得ていたとしている。

この時知り合った翁町河岸で薪炭問屋を営んでいた元鳥取藩士の山口菊次郎に求愛され、父定吉の反対を押し切って結婚したとされる。この記事の要点部分を次に掲げる。


明治36年(1903)「千葉の名灸」


。。。略。。。翁町の河岸に薪問屋を営みいたる山口菊次郎なる者あり。元やはり鳥取藩士にして、さな子が名をも聞き及びいたりしかば、その横浜に在るを幸い、人をもて結婚を申し込みしに、さな子もようやく己が営業の寡婦に適せざるを悟りし折から、殊に龍馬が七周忌も済みたる後とて、遂にこれを請いて結納までも取り交わし、さて、父定吉の許へかくと言送りしに、昔気質の定吉は、もっての外と憤り、直ちに横浜に来りて、さな子を詰り、


其方の命は嘗て龍馬が霊前に捧げんとしたるものならずや、然るを今更何の面下げて他家に嫁がんとはする。況して人もあるべきに藩中にても、軽格の山口に行くとは何ぞ、左でも強て行きたくば、、この場に於いて龍馬に代わり、我が手に掛けて惜しからぬ。其方の一命絶ちくれん


と、円(つぶら)の目を瞠りつつ携へ来れる刀の鯉口早や徐々と寛ぐるに、さな子も今は当惑し、厠に上る振にてソッと裏口より抜出し、やはり鳥取藩の用達を勤めいたる串田八百吉なる者、当時、小形屋と云える売込問屋を聞きて南仲道に住み、其妻女おふぢとは入魂の間柄なりしかば、取敢ず同家に赴きて一伍一什を告げ書き、分別を借らんとせしに、八百吉夫婦も棄置がたく、まづさな子を隠まい置きて、だんだん定吉に詫び入り、今更故なく約束を反故にもしがたければ、是非に納得せられよと言葉を尽くして仲裁せしにぞ、定吉も終に其顔に免じ、さな子を一旦串田が養女として山口方へ嫁がしめしは翌年(明治7年1874)7月の事なりき。。。略。。。


記事内容の全てが事実かどうか、また、登場人物の実在性も裏付けの必要があるため鳥取県立博物館を訪れた。すると、同館に所蔵される「明治三年書送長」に山口菊次郎が千葉定吉と併記されている記述を発見したことにより元鳥取藩士であることを確認した。また、「贈従一位池田慶徳公御伝記」で同人が横浜に住んでいたことも確認できた(明治7年1874年4月3日条)。なお翁町河岸にあたる現横浜市中区翁町1―1では明治中期においても薪炭問屋の存在が三件確認できた。


鳥取藩士の実在確認


また結婚する際にいったん養女となった串田家についても「八百吉」ではなく、「信太郎」として同様に実在が確認できた。この人物についても「千葉の名灸」が述べる屋号・住所・職業共に一致しており、「贈従一位池田慶徳公御伝記」にも同様の記述が確認できる。


また戸籍についても「島根県士族千葉定吉二女」とあり、足立区(転籍する以前に桶町とは違う場所に本籍があったことは明らかだ。なぜなら鳥取県は明治9年(1876)から明治14年(1881)まで島根県と合併しており、明治9年から14年まで同じ場所に本籍があったなら「鳥取県士族」に更生されるからである。


以上、記事の信憑性を検証すると、登場人物が実在したと確認できること、また千葉さなが山口菊次郎との婚姻関係を否定する材料は見出せなかったことから、現時点では千葉さなが、一時期にせよ結婚していたと推定する。


桶町道場のこと


ところで通説となっている千葉定吉(1797-1879)が開いた「桶町道場」だが、今まで明確な場所が解っておらず、今年の3月に中央区教育委員会は桶町道場を「鍛治橋通り(現八重洲2-8)にあった」とする案内板を設置した。しかし、「東京市史稿」や「諸願伺届綴込」によると、同案内板 の場所は安政2年(1855)に焼失してい る。以後は桶町31番地(現八重洲2-4) に移転しており、この道場を「桶町道場」と 呼んだのだ。つまり桶町でない場所を「桶町 道場」と呼ぶわけもなく、案内板の設置は遺 憾である。 なお、桶町道場は明治4年(1871)ま で存在した。道場主である千葉重太郎が鳥取 県へ出仕するため、道場経営ができなくなっ たために閉業している。 その後、道場は東京都公文書館所蔵の公文 書によると千葉東一郎(千葉重太郎養子、千 葉周作の庶子)に譲られ、同人の身上調書に よれば道場は牛の飼育所となり、同所で牛乳 販売を行っていたと記されている。なお、こ の屋敷も明治9年の大火で焼失した。


坂本龍馬の入門時期とさなの関係 


坂本龍馬が千葉道場にいたとする史料は非常に少ない。坂本龍馬が通年で小千葉道場に いたとする根拠は「長刀兵法目録」のみであ り、実は坂本龍馬を有名にした「汗血千里駒」 を含め、多くは千葉周作が経営する玄武館(現 千代田区東松下町)の門人としている。 また、清河八郎が記した「玄武館出席大概」 (清河八郎記念館蔵)にも坂本龍馬の名前が あり、この文書が嘉永年間に記されたことは 山岡鉄舟が「小野鉄太郎」と記されているこ とと、坂本龍馬の江戸滞在期間から勘案すれ ば確定できる。 一説に小千葉道場の門人も含んだような記 述をする御仁もいるが、小千葉道場の門人は 末尾に少々いるだけだ。同道場の高弟で、徳 島藩士の清水小十郎を筆頭に門人の多くが欠 落していることから、坂本龍馬は嘉永6(1853)年の時点では玄武館の門人というこ とになる。 よくよく考えれば千葉定吉が鳥取藩に「雇」 (現在でいう非正規雇用)となるのは同年4 月 26日なので、土佐を出立前の時点で浪人道 場である小千葉道場へ入門するのも不自然な 話だ。つまり千葉さなと龍馬が深く関係する のは安政3年(1856)以降となる。


坂本龍馬(ウィキペディア)

坂本龍馬(ウィキペディア)


結び 


急に脚光を浴びたことにより、千葉さなの 人気は急上昇しているが、反面、史料の希少性から、適当に書かれる場合や唯一草創期に 先んじて調査し、その結果をもとに創作した 阿井景子氏の小説を全て真実と決め付け、阿井氏に確認もせず、無批判に引用する研究家や、更にその文章を根拠として展開し、虚実 が混在する内容のものも出ている。そのため 初出の調査は困難を極めた。 ただ、結婚歴があろうが、千葉さなが坂本 龍馬を愛していたことはすべての資料が認め ている。


 文久3年(1963・推定)に龍馬が坂本 乙女(本来は「とめ」が正しい)へ送った書簡の内容も、「さな」についての問合せに対する龍馬の返答と窺えるため、坂本家が千葉さ なに関して興味を抱く出来事があったのは事実であろう。 たとえ片思いではあっても「許婚」と語り、 晩年のその心情は、現在多くのファンに深く伝わるものであろう。


足立史談508号2010年6月15日発行あさくらゆう著

「続・千葉さなについて~千葉定吉家にまつわる誤伝について~」より

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