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烈女 中野竹子 会津の女侍

執筆者の写真: Fine Ladies Kendo WorldwideFine Ladies Kendo Worldwide
Old Photo of Nakano Takeko
ポール・バデン編

中野 竹子(なかの たけこ)1847年4月 – 1868年10月16日


中野竹子(なかのたけこ)は、戊辰戦争において戦い戦死した、会津の女侍である。彼女が薙刀を使ったことはよく知られている。会津戦争において、彼女は自主的に会津軍からは独立した娘子隊(じょうしたい)(1)を結成した。


会津軍に加わらないようにという会津の家老たちの意向にもかかわらず、竹子らは前線に出陣した。彼女の部隊は後に「娘子隊」と呼ばれるようになった。


竹子は江戸詰勘定役会津藩士、中野平内の長女として江戸に生まれた。母は足利藩戸田家の家臣、生沼喜内の娘、孝子(こうこ)。 竹子には弟豊記(とよき(2))と妹優子(まさこ)がいた。竹子は武家という特権階級の家に生まれ、容姿端麗で聡明であったと言われている。


1853年から1863年まで、武術に加え儒教や和歌、書などの教育を受け、のちそれらの師である赤岡大助の養女となった。赤岡大助は会津藩主松平容保の姉照姫の薙刀指南役で有名である。


同じ門で学ぶ妹など年下の生徒を指導していた彼女は、日本の女流武芸者の物語を好んで読み、巴御前の伝説に深く感銘を受け、幼少の頃から小倉百人一首を暗誦していたほどであった。


靜流の黒川内伝五郎から薙刀を学び、岡山県(備中)の板倉藩主庭瀬氏夫人に祐筆(3)として仕えながら薙刀を教えていたが、1863年(文久3年)前述の通り赤岡大助の養女となり退官した。この時赤岡は蔵奉行として京都に赴任していた。赤岡は彼女を甥に嫁がせようとしたが、国を揺るがす動乱の様相を呈する世情にこれを断り、復籍し江戸で家族と再会を果たした。


竹子は、1860年代に養父のもとで武術の指導に当たった後、1868年2月に初めて会津の地を踏んだ。中野家は米代二ノ丁にある父の遠縁の田母神兵庫の屋敷に住んだ。会津若松城下で、春と夏の間、婦女子に学問や薙刀を教えた。女湯でのぞき見をする輩を追い払ったという。竹子は毎晩床に就く前に必ず居合を千本抜いたと言われている。


中野竹子はまた、徳川旧幕府軍と明治新政府軍が対立した戊辰戦争に深く関わった。旧幕府軍を支持し、会津戦争に参加。圧倒的な新政府軍との衝突の中で、母と妹とともに薙刀を振りかざして活躍した。


中野竹子(21歳(4))が筆頭5の娘子隊を構成していたのは以下の女性たちである。


中野竹子の母・孝子(40代)、妹・優子(16歳)、平田小蝶、妹の平田吉子、依田菊子、依田まき子姉妹、女武芸者として有名な山本八重(6)、岡村ます子、姉の岡村まき子。会津藩士の未亡人・神保雪子。紋名薙刀道場の門下生、紋名りえ子、西郷とみ子、永井さだ子、原五郎の妹、河原あさ子、小池ちよ。(7)


悪天候に見舞われ、雨とみぞれの中、女たちは出陣した。会津軍衝鋒隊隊長の古屋佐久左衛門は、前日娘子隊の隊長として彼女を指名した。


その日の早朝、福島県西端の柳橋で、大垣藩の兵に遭遇し、中野は突撃を命じた。戊辰戦争で新政府軍が着用していた赤熊(しゃぐま)を被り銃器を携えた隊長が指揮を執っていた。敵の隊長が敵軍に婦女子がいることを知り、「女だ、殺すな!」と叫んだ。


この一瞬が娘子隊に攻撃の隙を与え、娘子隊は砲撃が再開される前に何人かの大垣兵を倒した。会津の女性兵士たちは、予想外の強さで敵を圧倒した。中野竹子は薙刀を持って、幾人かの敵を倒したが、胸に銃撃を食らった(8)。竹子は敵に首を捕られないよう、妹の優子に介錯を頼んだ。優子はこれに同意し、農兵である上野吉三郎の助けを借りて介錯した。戦闘中神保雪子に助けられた養妹の平田小蝶は、竹子亡き後城を守るため隊長を引き継ぎ、山本八重が副隊長となった。戦いの後、孝子も優子も鶴ヶ城に入り、山本八重と合流した(9)。


中野竹子の首級は、妹の手によって近くの法界寺(現在の福島県会津坂下町)に運ばれ、松の木の根元に住職の手によって安置された。彼女の薙刀は寺に寄贈された。


明治維新を経て、1868年(明治元年)に天皇親政となり、武士階級が廃止された。中野竹子は歴史上最後の武士の一人として記録されている。


平田小蝶と女武芸者

平田小蝶と女武芸者


Photo of unknown onna-bugeisha

中野竹子とよく間違えられる女武芸者(役者の可能性が高い)


Photo of Nakano Takeko monument in Fukushima, Japan

中野竹子碑(法界寺、福島県会津坂下)

法界寺には、彼女の墓の墓碑が建っている。会津出身の出羽重遠海軍大将が建立に携わった。


地域に受け継がれる伝統

今日、会津若松で毎年秋に行われている「会津まつり」の最大の目玉は、総勢約500名が参加する「会津藩公行列」である。ここに会津藩の歴代藩主などに加え、白羽二重鉢巻に袴姿の少女たちが、娘子隊や中野母娘の姿で行列に参加している。


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外部リンク


参考文献

『会津藩戊辰戦争日誌』 菊地明 新人物往来社 2001


『少年輝く白虎隊』高木英一郎 大同館書店 1931


(翻訳に当たって、日本語文献で得られる情報と原文の史実が異なる部分は脚注で追記しました。)


会津関連の参考文献の提供をいただきました小林ルイス氏に心から感謝いたします。


脚注

1 1婦女隊とも言われる。


2「とよのり」と書かれた資料が多いが、『少年輝く白虎隊』で「とよき」と記載されているのでこれに従い「とよき」とした。


3武家の秘書役、事務官僚


420歳、また22歳の説がある。


5筆頭は母孝子であったという説もある


6娘子隊編成当初から山本八重は入隊しなかったという説もある。


7 敵の侵入が突然だったため、当初約束した20人余りの編成は叶わず、「実際は中野姉妹と孝子に加え依田まき子、菊子姉妹と岡村ます子の6名のみだった」という記録が、『会津藩戊辰戦争日誌』で、依田菊子が回顧録の中で語っている。


8 額に銃撃を受けて即死したという説もある。この場合、約束通り妹優子が即座に介錯した。依田菊子が回顧録で「真正面から来た弾丸が額に当つて亡くなられました」と語っている。


9この柳橋(涙橋)での戦いは6人の娘子隊が衝鋒隊に加わり、3時間にわたる戦いで最初は優勢だった会津方が薩摩と土佐の銃器兵が駆けつけたことで立場が逆転したと言われる。銃撃戦となり会津方は接近戦へ移行した。


____________________


ポール・バデン

Kendo Kyoshi 7th dan


剣歴は40年、弘道館剣道クラブ館長、剣道教士七段。1987年スウェーデンのマルメで開催されたヨーロッパ剣道選手権大会でイギリス代表で団体戦銅メダル受賞。弘道館国際剣道セミナー主催を34年間務める。


またヨーロッパ剣道史の研究家・作家として広く知られている。

著書:

Looking at a Far Mountain – A Study of Kendo Kata 

Devil’s Gloves and the One Cut – An introduction to Ono-ha Itto ryu Kata 

The Three Ages of British Kendo、Biographical Portraits – Volume IX 

A Truly British Samurai – The exceptional Charles Boxer

The Oshu Kendo Renmei – A History of British and European Kendo (1885- 1964) 

A Man of Many Parts- Portrait of an Inimitable Swordsman 

Paper Butterflies – Unravelling the Mystery of Tannaker Buhicrosan 


ヨーロッパ剣道連盟主催ヨーロッパ剣道選手権大会で、20年以上にわたり司会進行を務める。2003年グラスゴーで開催された第12回世界剣道選手権大会ではイギリス剣道連盟の主催ディレクターを務めた。元マルタ剣道連盟会長兼テクニカル・ディレクター。

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